द कोव
何やら論争を巻き起こしているこの映画、知人の持っていた海外盤DVDを鑑賞させて貰う機会が先日あったので、以下いくつか断片的な感想をば。




この映画については、「隠し撮り」など一部の取材手法や、イルカ漁とそれに従事する人々の描き方、はたまた「ドキュメンタリー」とは言いがたい「スパイ大作戦もの?」な展開など、疑問に感じる点は多々あるけども、本邦での劇場公開前(それすらも危うい雰囲気になってきましたが・・・)ということなので詳細は省略。
ただ、最後のエンディングロールの音楽として「Heroes」が使われてたのがハッキリ言ってアレですな、好きな曲なのに何だか冒涜されたみたいでむしろイヤな気分・・・。まぁ歌詞の「like the dolphins, like dolphins can swim」の部分を使いたかったのが一番の理由だろうけど、曲名にかこつけて撮影チームによるミッション成功を勝ち誇る意図が透けて見えるような気も。あなゲンナリ。

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そんなこんなで、少なからず反感を覚えつつ疑わしい目で鑑賞したのだが、見終わってみると前評判よりもずっとあっけない感じの映画かも。なので、よけいに反感をつのらせたり、逆に目からウロコで考えを改めたり、ということも特に無いのだけど・・・、あえて総括するなら、映画の日本版公式HPに掲載されていた以下のコメント中の一文が最も腑に落ちますな。
(前略)・・・・なぜ、イルカの言葉が理解できる制作チームが、同じ人間のしゃべる言語を理解しようとしないのか? (小黒一三、『ソトコト』編集長)

撮影チームに協力する元調教師や潜水ダイバーの人々によって劇中で語られる、個別の経験に基づいて形成されたイルカに対する憐情・善意というものは決して否定するつもりはないけれど、問題はそのような善意が熱情に突き動かされた使命感へと形を変えていくと、どうしても外からは独善や強制とも取れるものに変容してしまうことなのか。まさにこの点が印象に残った。

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また、制作者側の当初の意図通り、この映画による「告発」なり「啓蒙」を契機として、多少なりとも国内外の世論による囲い込みが、だんだん籠城の外堀を埋めて兵糧攻めにしていくかのごとく行われていくのかと鑑賞後考えているうちに、数年前に関根康正氏の著作のなかで読んだ、オリエンタリズム的表象の暴力における三者関係の構造についての議論がふと思い出された。

オリエンタリズムにおいて一般的に想定されるのは「西洋(オクシデント)」>「東洋(オリンエント)」の二項対立だが、このような不均衡な二者関係が構造的に再生産され続けるために、①「西洋」―②良き「東洋」―③悪しき「東洋」という三者関係が必ず内包されているという議論だったかとうろ覚え。
これを簡単に言うと、(別に「西洋」「東洋」に限らず、何らかの力関係において)①が何かを主張するときに、③という共通の悪役なり標的を作り出し、②という味方なり共犯を確保することによって正当性が保証された①の言い分は(もし仮に間違っていたとしても)常にまかり通るような状況ができあがる、ということかと。

余談だけども、二者と三者の違いをイメージしやすく言えば、長編ではなく日常短編におけるジャイアンとのび太の関係が前者、出来杉と静香ちゃんとのび太の関係が後者(厳密に違うかも知れないけど)にあてはまる?まず、ジャイアンはのび太をよくバカにしたり時に殴りつけて言うことをきかせようとするが、このような二者関係なら傍目にもジャイアンが暴力を振るっているのは明らかだし、いざとなれば(もし殴り返せないにせよ)何故殴るのか尋ねたり、言い返したりするくらいはできる。しかし、これが出来杉が相手だと簡単にいかない。もし出来杉の提案に静香が賛同し、のび太は反対するにしても数の上では2対1、既にその場は出来杉の提案について二人の間で話が進んでしまい、のび太は今さら入っていけない。せめてドラえもんの助けを借りて二人の間を邪魔をするにしても、読者の目にすらのび太のほうに非がある、ただの嫉妬としか映らない。この場合、のび太にとって本当に抗い難いのはどちらの状況のほうなのか。(でも、出来杉も静香ものび太をのけ者にするような悪意があるわけではないし、やっぱり厳密には不適切な例えだったかも、ここまで書いといてアレだけど。)

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この映画および作品に関係する一連の事象についての見聞を通じて、何だか知らないけれど心の中に発生したわだかまりのようなものをあえて言葉にするなら、ちょっと長いけど次のような感じでしょうか。

自分の日常生活の場面に直結した部分ではさしたる重要性を感じておらず(この心境はおそらく日本の大多数にあてはまることかと思いますが)、かといって安易に廃止の意見に組みしがたく、またかといって制作者側に対する(前述の通り反発を感じないわけじゃないけれども)プチナショ的敵愾心とも同調しえず、さらにかといってここで無関心を決め込むのが「中立」ではありえないような状況でどうすればいいのか?
ぐだぐだ考えてもよくわかりませんが、とりあえずのところ唯一言えるのが、このような事象が生活における死活問題となっている(とまでいかずとも、心理的に深いところで自己の存在意義に密接に関わってくる)ような人々の心情について想像力をできるかぎり巡らせておくことが必要なのではないかと。

それはさておき、人口わずか4000人足らずの小さな町に、オスカー賞という海外の権威(を過度に想定するのもあれですが)が及ぼす影響はどれほどのものになるのか分かりませんが、住民の日常生活の諸局面においてある種の緊迫感や息苦しさが少なからず増したことだけは確かかと。
(もったいぶって書いたわりに想像力&文章力が貧困ですいません・・・。)

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幼児婚やサティーに名誉殺人など、インド国内の社会政治の文脈においてもいろいろと文化ナショナリズム的な熱い論争を少なからず引き起こしている「伝統」とされものは多々ありますが、これらの問題についても、ついでに今ひとつ考えてみたくなりました。

問題の現場から遠く離れたところで生活し、あくまでニュースの話題としてしか普段接しないような異国人の立場の自分としては、表向きは背景事象や歴史的過程などについてそこそこ知って「寛大に」頭で理解したつもりでも、結局心のどこかでは「後進性」なり「盲信」なり、不可解な「あくまで一部の人たち」のものとして片付けてしまいがちなのですが、そうやって「伝統」として固執せざるをえない人々の言い分には誰が耳を傾けるのだろうかと。

直接的な行為が行われる段階での「被害者」(動物か人間かという違いがあるので、イルカ漁とサティーやらを全く同列に扱うつもりはありませんが、あくまでちょっと強引な比較として)は守られなければいけないと信じる人にはそうなのかもしれませんし、その信条を否定するつもりはないのですが、同じ問題の別の位相、つまりそういった信条を持つ周囲の人々が「被害者」を守るべく介入する際に「加害者」を、前述の三者関係の図式における③の位置に押し込めてしまう限り問題はいつまでも解決しないのでしょうか。

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長くなった割りにあんまりまとまりないけど感想は以上。どこもとりとめもなく、かつ放り投げっぱなしの議論ですいません。
あと、こんな辺鄙なブログでは可能性低いけど、もしコメント欄が妙な雰囲気になったときはどうしよう・・・、そんな事態になったらコメント欄閉じるはめに???
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by ek-japani | 2010-06-15 00:32 | 映画


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