日本の女優でたとえるならば・・・?
あんまり意味のない問いですが、あえて挙げるなら誰でしょうかね?自分的には桃井かおりが近いような気がします。

・・・いや、たしかに容姿や喋り方、性格など全体の雰囲気はあんまり近くないと思いますが、ほぼ同じ年齢のようですし、インテリ家系の家庭背景とか。とくに女優としての経歴も、若い頃のデビュー時は挑戦的というか反逆的というか、そういう役柄で鮮烈な印象を残し、そんな雰囲気を残しつつも円熟味を増しながら年を重ねて、いまだに女優として現役なとことか。

昔の写真とか見るとハッとするほど意志の強そうな眼をしてますね、まあ今もそうだけど。

まぁそんなこんな考えながらウェブでたまたま観ちゃいました、アルジャジーラの番組でこないだ放送のインタビューです。



シャバーナー女史への質問も、女優としての華々しい経歴のみならず、コミュニスト的な生育環境やらリベラルな政治的信条やらにもつっこみつつ、初見の視聴者でもざっと彼女の人となりがわかりやすい、的確な感じの質問で面白かったです。

とくに最後のほう(21’25”~あたり)で、ハンチントンの「文明の衝突」的な見解を全く退け、現在あるべき対立軸は「宗教」や「西洋/東洋(文化圏)」ではなく「価値観」にあるのであり、ヒンドゥーもムスリムも他の宗教コミュニティーに対立の目をむけるのではなく内なる相手(「過激派」)と向き合うべき、という「リベラル」派としての見解が印象的です。また「過激派ヒンドゥーと過激派ムスリムは(一見して敵対してるようで、実は相互の利害が一致した)友好関係にある」という指摘もごもっとも。

ある意味でこのようなシャバーナー女史の考え方は、独立後のネルー主義的社会主義が華やかりし時代の社会的理想(セキュラリズムやコスモポリタニズム)の典型*1、ないしその色濃い影響が見て取れるような気がしました。その点では、もちろん両親の影響も大でしょうが、独立直後の時代に生まれた世代的な要因も大きいのではないでしょうかね。


・・・・で、またさらに全然関係無いんですが、ところで同じような「リベラル」的でも、近年の社会派的娯楽映画の代表作「Peepli [Live]」なんかでは、制作側の志向性が「理想主義」ではなく「リアリズム」に大きく推移している*2 ような気がします。とくに結末(と途中の穴掘り老人の死とか)などみると、最後に主人公は死なないまでも村や家族を棄て都市を流浪する建築現場の労働者に身をやつすという点が、「労働」やら「村落共同体」やら「発展」といったかつてのガンディー主義やネルー主義などの「理想」に対するアンチテーゼとして*3、現代における原始的資本蓄積過程のディストピア的絵図をもってきたかのようにも見えて若干衝撃的でした・・・。

そういった方面では、かつての社会主義的な教訓めいた「理想主義」的(というか下手な脚本では「予定調和」すぎ)な結末は「リベラル」な都市部の観客層にも受け入れられないんでしょうかね*4 。もはや懐古主義的なフィルターとかを通してですら無理?この点は、自分のなかでの比較対象が50年代の「Naya Daur」とかだったりするので、かなり偏向した意見だとは思いますけど。


*1:もちろん、当時の政治思想の潮流にも傍流・非主流や、はたまた非合法化されてたものまで左右幅広い多様性があり、地域や社会階層によってもその捉えられ方など状況に大きな差はあったとは思いますが、あくまで社会の「主流」として、とくに娯楽映画などの大衆メディアに描かれ、最大公約数的に共有されてた理想というか希望というか雰囲気みたいなものとしての「典型」という意味ですが。

*2:このような「リアリズム」への傾倒は、昔から芸術映画の系譜が担ってきたものなので完全に時代的変化ではないのでしょうが、いちおう都市部で(ある程度まで)多く上映され幅広い一般観客層にウケたという流通や受容されかたの点から、かつての「芸術映画」とは映画フォーマット的に一線を画しており、その意味ではどちらかといえば「娯楽映画」だと思うので。また、個人的には、「理想」と「リアル」は相反する概念ではなく、どちらかといえば相補的なものだと思っておりますが、いちおうここでは便宜的に。

*3:まあ自分の穿ち過ぎた思い込みでしょうが、「Peepli [Live]」を最近観る機会があり、途中の戯画的な社会風刺めいた雰囲気と一転して、結末のどうしようない状況に対する苦い後味があんまりにも印象的だったもので。

*4:これまた映画の本数も全然見てないし、時代変化の途中経路など様々な社会背景も無視してるので、考察が飛躍気味で乱暴なのは承知であえてキメツケ飛ばしてみました・・・。

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by ek-japani | 2011-04-28 01:50


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